とりあえず
ココログフリーでは1年間記事投稿がないとブログごと消されてしまうので、とりあえず保持のため、この文をアップ。
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最近の円高はすごい。特に豪ドルに対する変動はびっくりするほどである。シドニー日誌では、2008年4月6日、8月3日、9月6日、そして帰国前の2008年2月26日の4回取り上げている。左の為替チャート(YOMIURI ONLINEのデータ)を見てもらうと一目瞭然だが、2008年4月のシドニー行き直前から円安・豪ドル高になり、その後は2~3回、円高・豪ドル安になったものの、1年間を平均すると1豪ドル=100円程度であった。それがこのところの急激な円高で、1豪ドル=60円である。4月6日の記事で、「実感としては1ドル=60円くらいでちょうどよい。一昨日、シドニー大学生協で買った500mlペットボトルの水は2ドル30セント(今のレートで約230円)だった。」と書いたが、まさに、そのレートである(ちなみに、このレートで2ドル30セントだと138円)。このレートで1年過ごせたら随分と楽できたろうと思う。
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今や寿司は世界的ファストフードであるが、中でもシドニーのスシ・バーの多さは特筆に価する。回転寿司(オーストラリアではSushi Trainと呼ぶ。もともとはチェーン店名だが、固有名詞が一般名詞化しているようだ)の店もシドニーの街中には多いし、巻き寿司のテイクアウト店はいたるところにある。アジア系住民が多く魚介類も新鮮で豊富な都市なので、味もいいし、それほど高くない。写真の店ではおにぎりよりも大きなサイズ4つで7ドル(バラなら1個2ドル40セント)。1個約200円である。ただし、5月2日や2月15日の日誌に書いたように、シドニー大学やニューサウスウェールズ大学の売店で売っている寿司は味も値段もよくない。
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私がシドニーに来たのは2007年4月2日。その週末が復活祭(Easter)だった(4月6日の日誌参照)。2008年は前年より早く、3月21~24日が復活祭休日。復活祭の前になるとスーパーには、卵やウサギのチョコレートが所狭しと並べられている。イースター・エッグ、イースター・バニーである。キリストの復活を祝うというよりも、新しい季節(欧米だと春だが、ここでは秋)の到来を家族で喜ぶという感じだ。
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このシドニー日誌は2007年4月2日から2008年3月16日までのシドニー滞在に関する私的記録であり、関係者(親類やゼミ学生、日本での職場関係者、同業者)に私の近況をお知らせする目的で書き始めたものだが、そうした個人的知り合い以外の方も、シドニーおよびシドニー大学に関する情報源として読んでくださっていたようだ。私自身もシドニーに行く前にネットで情報収集した際、シドニーに住んでおられる(あるいは過去に住んでおられた)方のブログを随分参考にさせていただいたので、私のシドニー生活は終わったが、しばらくはこの日誌を消さずに残しておきたいと思う(ただし、こうした情報はどんどん古くなって役に立たなくなるので、これからの読者の方はその点にご留意いただきたい。
なお、この日誌は@niftyの無料ブログサービスを使っている。1年間、新規記事がないとブログが消失するし、書き残したトピックもいくつかあるので、ときどきは追想録として記事をアップしたいと考えている。これまでの読者の方も機会があればまた覘いていただければと思う。
また、シドニー情報を求めてこのブログを訪れる方にとっては、テーマごとにカテゴリ分けをしてあるほうが便利だと思うので、暇を見て過去記事をいくつかにカテゴリに分けて調べやすくしたいと考えている。
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帰国前日。ホテルの部屋で、某誌から審査を依頼された論文の査読報告書を作成。数日前に一度読んでメモしたコメントに基づき作業したので、計画通り昼前に終わり、昼から最後の市内観光。まず、サーキュラー・キーで、フェリーの発着を眺めながら、昨日ゴードンの家を出るときに冷蔵庫に残っていた魚のフライとポテトフライなどをのんびり食べる。

徒歩5分圏内にある2つの博物館(犯罪博物館、シドニー博物館)を見学し、15分ほど歩いてロックス(10月21日の日誌参照)を再訪。一度ホテルに戻り、ネットカフェに立ち寄った後、シドニー最後の夜を楽しむことにする。
それは、夜7時半から始まるドッグレース見物である。ドッグレースが開催されるのはダーリングハーバーから西へ徒歩15分ほどのところにある。途中の通りは治安があまりよくないと聞いていたので少し警戒しながら向かう。着いたときには第1レースが終わったところだった。客のほとんどは車で来ているようだ。「紳士淑女の社交場」である競馬場(2月16日の日誌参照)とちがって、「貧者のギャンブル」であるドッグレースにいるのはラフな格好の観客ばかりである。とはいっても観客層の服装には重なりが大きいので、上記の二分法はやや誇張したものである。スタンドも立派で綺麗だ(もっとチープな木製の見物席を想像していた)。
競馬と同じくレースは30分に1回ほどのペースで進むようだ。騎手が馬に乗る競馬と違い、ドッグレースは犬自身が走る。競馬のものとは少しメロディの違うファンファーレが鳴って始まる。競馬のように厩務員(ハンドラー?)にひかれて入場するので、犬の状態を観察できる(ただし、競馬と違い、パドックがないのでじっくり下見をする機会はない)。犬種はグレイハウンドだ。
草食動物のウマが走るのは敵に追われたときである。だから、騎手は馬の尻から鞭を当てる(後ろから追いかけて来る敵の攻撃を模している)。肉食動物のイヌが走るのは獲物を追うときである。だから、ドッグレースでは、ウサギのぬいぐるみがイヌの前を走る。なお、競馬ではファンファーレが鳴ると観客が盛り上がるが、ドッグレースでは、ファンファーレ時よりもウサギのぬいぐるみがレースに先立ってコースを試走するときに観客が大いに盛り上がる。さて、レースはあまりに早くて、普通のデジカメではきちんとその姿を捉えられなかった。
チケット(競馬なら馬券、正式名称は勝馬投票券だが、ドッグレースでは犬券、勝犬投票券と呼ぶのだろうか?)は、競馬のようにカウンターで買う。ただし、馬券のように裏面に「ギャンブル中毒の方はカウンセリングを受けましょう」の文字はない。ペラペラのレシートのような紙だ。夜道が心配なので、観たのは第2レースのみ。レース直前にチケットを購入。単勝で1番を1点買い。なんと当たった(掛金は5ドルで4.5倍と配当は低かったが)。1年間の動物心理学研究の成果・・・というのは冗談だが、シドニー生活の最後を綺麗に締めくくることができた。
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大家のお母さんであるRoslyn Markhamさんが10時に来て、ゴードンの家を明け渡した。1時間ほど室内チェックや雑談をして、11時にゴードンの家を去る。昨年4月8日に入居した当時は幽霊屋敷だった。この1年間、色々とトラブルもあったが、楽しい想い出もたくさん作ることができた。マッキンタイア通り32番地、南半球のわが家よ、さようなら。
Roslyn Markhamさんの車でゴードン駅まで送ってもらい(大きく思いスーツケースとさらにもう1つ大きなバッグを抱えてマッキンタイア通りの坂道を登るのはつらいなと思っていたのでありがたい)、セントラル駅への片道切符を買う。
今日と明日の宿泊は駅前のホテル。昨年4月にシドニーに着たばかりの頃は、1週間ほどの滞在だったため宿泊費を安く上げるためにバックパッカー用のホテルだったが、今回は2泊なので、それなりのホテルにした。安ホテルは前回で懲りている(4月6日の日誌参照)。

ホテルで一息ついてから、歩いて観光に行く。ダーリングハーバーの中国庭園は、東の市街地向きに眺めると背景の高層ビルが雰囲気ぶち壊しだ(その対比が面白いともいえる)が、西向きだといい感じだ。私はそれよりも、園内の岩(オーストラリア産の石灰岩)にサンゴやウミユリなどの化石がたくさん含まれていたので、それが楽しかった(子どもの頃は化石少年だったのである)。
さらに歩いてフィッシュマーケット(魚市場)へ。あいにく夕方だったのですべての店が閉まっていた。
最後に、スターシティへ。ここはホテルだが、2階がカジノになっている。私はカジノに入ったのは初めてなので興味津々。ブラックジャックやルーレットなどディーラーのいるゲームは映画で見るようなイメージで雰囲気を楽しんだが、スロットマシンなどはすべてTVゲームになっていて、がっかり。「大きくてゴージャスで子どもがいないゲーセン」という印象だ。「カジノ」という言葉にはアダルトな雰囲気が漂うが、TVゲームの前に座っている大人たちを見ると、「いい年をしてガキみたいに」という思いが沸いて出てきて、そういう気持ちで見るとそれ以外のすべてのゲームもなんだか子どもの遊びに思えてきて興ざめ。何もせずに15分で出てきてしまった。なお、カジノ内は撮影厳禁なので、建物とカジノの入り口の写真のみ載せておく。
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昨日大家から家の保証金返却の書類が届いたので、市内にある州の役場に保証金を戻してもらいに出かけた。こちらでは、貸主と借主間のトラブルを防ぐため州政府が第三者として保証金を預かっている。日本でもこうした制度を取り入れるとよいと思う。
さて、1年間もシドニーにいたにもかかわらず、住んでいたのが郊外だったこともあって、シドニー市内の観光名所のいくつかをまだ見ていない。というわけで、午後は歴史地区を見学。写真(クリックで拡大)は左上から順に、市内中央のハイドパークの噴水(過去に2回ほど訪れたが近くで見たのは初めて)、聖メリー大聖堂(南半球最大の聖堂)、州立美術館、州立図書館、州議事堂、シドニー病院の前のイノシシ(鼻に触ると願いがかなうというのでことで、鼻先だけこすれて金色になっている)である。
造幣局に行ったら、玄関に昔の衣装を着た人々がいた。歴史地区だからそういうものかと思った(昔住んでいた米国フィラデルフィアの歴史地区には、観光客向けに古い衣装を着た市職員がいた)が、どうも雰囲気が違う。聞いてみると、こちらのテレビで放映される歴史ドキュメンタリーの撮影がたまたま行われているとことに出くわしたのだった。というわけで、これらの人々は俳優やエキストラである。
左端写真は流刑囚のための宿泊施設(Hyde Park Barracks)。ベッドはなく、ハンモックだ。
ところで、昨日妻が家で使っていたノートPCを持って帰ったので、以前に使っていたVAIO(7月20日の日誌参照)を昼前につなごうとしたのだが、システムが入っていないという警告メッセージが出て、Widowsが立ち上がらない。8月4日以来まったく手を触れていないのだが、ハードが壊れたのだろうか?仕方ないので、シドニー大学のオフィスで使っていたノートPC(Dynabook)に切り替えるが、こちらはもちろん動くもののネットにつながらない。契約は明日で切れるが、まだ大丈夫のはず。 現地プロバイダに電話して3時間ほど電話越しにいろいろアドバイスを受けながら格闘したのだが、先方にも原因不明の理由で接続できなかった。どうせあと1日だし、あきらめるしかない。そういう理由で、今日は市内のインターネットカフェ(シドニーに来た当初に通っていた馴染みの店)からネットにつないだ。
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写真は妻と娘たちの帰国直前の玄関リビング。妻の友人たちに不用品を何点か引き取ってもらい、お別れの挨拶をタクシーの到着する9時までにすませた。しかし、タクシーが9時15分を過ぎても到着しない。予約したのは妻なので、妻がタクシー会社に電話すると予約が入っていないという(前日に再確認の電話をしておくべきである)。幸い妻の友人の1人に電話で連絡して来てもらい、妻たちは彼女の車で空港に向かった。幸い、無事に時間までにチェックインを済ませたとの電話があった。
私は家の後片付けやネット接続の試み(詳しくは明日付の日誌を参照)を夕方5時半までしてから、チャイナタウンにある日本居酒屋で、ボークス教授とハリス上級講師を招いてのお別れ会。日本料理店はシドニーでは普通なので、彼らも行きなれているだろうが、日本居酒屋は未経験だろうということでこの店を選択。結果的に楽しんでもらえてよかった。
帰宅して一風呂浴びてから論文を読んでいると妻から無事、日本の実家についたとの電話。
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家の前のマッキンタイア通り(5月29日の日誌参照)ではマンションの工事中(9月13日の日誌参照)。このため、交通整理員が立っている。
日本だと交通整理員が持っているのは旗だが、こちらでは「SLOW」「STOP」が表裏になった「ロリポップ(lollipop、ペロペロキャンデー)」と呼ばれる円形標識である。なお、小学校近くの道路で児童の道路横断を誘導する人は日本では「緑のおばさん」だが、こちらでは「lollipop lady」といい、やはりこうした円形標識を持っているそうだ。
さて、その工事中のマッキンタイア通りの急な坂道を、上の娘が元気に登るのも今日が最後である。今日は私は通勤しないので、重いリュックを私が持つと、両手を大きく振って駆けるように登っていった。

帰宅後は下の娘と一緒に、ゴードン・グレンで最後の遊び。
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昨夜は朝4時まで引越し荷物の箱詰め作業。今日は午前中に日通が着て引越し荷物をすべて運び出していった。段ボール箱で二十数箱、うち十数箱は論文の束と書籍である。午後からシドニー大学に行く。シドニー大学に行くのも今日が最後。昨年4月4日に初めて訪れたのが、ついこの前のようでもあり、随分と昔のようでもある。
今日はオフィスで少し仕事をしてから鍵を心理学科事務室に返した。残った時間でシドニー大学構内の写真を何枚か撮る。最初はQuadrangle(5月11日の日誌参照)。ここのジャカランダも綺麗だった(10月25日の日誌参照)。上左写真はQuadrangel中庭から見た正面建物。上右写真は、Quadrangleから心理学科棟へ通り抜ける西通路。ここは帰り道に良く通った。
その上に掲げられているレリーフ。正面左から順に、秤、本とペン、化学実験器具と顕微鏡。おそらく、法学、文学、理学を意味しているのだろう。
シドニー大学のことを書くのは今日で最後だから、学寮(college)についても触れておく。学寮というのは、寮と教室が一緒になった建物・制度である。39もの学寮)のある英オックスフォード大学ほどではないが、シドニー大学にもいくつかの学寮がある。左からWesley、St.Pauls(門柱)、Women'sの学寮の写真。このほかSt. Andrew's, St. John's, Sancta Sophiaの学寮があるようだ。
もう1つ、これまで何度か書こうと思いつつ、書きそびれていたシドニー大学の風見について紹介しておこう。学内の建物のいくつかには見事な風見がついているので、その写真をあげておく。左から、Quadrangleの南棟(McLaurinビル、9月4日の日誌参照)、北棟、医学部棟(8月16日の日誌参照)の風見。

左は連邦研究研究所(8月15日の日誌参照)、その隣は上で紹介したWesley Collegeの風見。最後、右端の風見はシドニー大学最寄駅であるレッドファーン駅の風見である(写真はすべてクリックで拡大)。
さて、私の帰国は16日だが、前述のように今日でシドニー大学とはお別れなので、「シドニー大学での研究留学」はこれにて終了。この1年で自分の研究の方向性が少し変わったように思うが、まだよくわからない。研究・人生にも風見が欲しいところだ。
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上の娘が妻と一緒に日本人学校のクラスメートのお母さんたちが開いてくれるお別れ会に出かけたので、今日も下の娘とお留守番。歩いていけるもう1つの公園に出かけた。こちらの公園(ナー・ラング・レスと書いてある、「ナー・ラング」はおそらくアボリジニ語の地名、「レス」は何の略だろう?)は、小さな子どもが勝手に出入りしないように、出入り口にロックがついていることが多い。黒い丸い棒を引き上げて開ける。
この公園は昨日のゴードン・グレンとほぼ同じ大きさだが、木陰がほとんどない。秋とはいえ、シドニーの日差しは刺すように熱い(これは欧米でもそうだが、日本と違って木陰に入ると、すごく涼しい)。
空には雲もあるが、太陽の近くに来ると熱でかき消されてしまい、陰らない。シドニー空港からの飛行機が飛んで行く。われわれももうすぐ日本だ。
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ゴードンの家に住むようになった当初は、日本でよく見かける小さな公園が、ここにはないと思っていた。お屋敷街なので、わざわざ公園に出かけなくても家の裏庭で十分なのだろうと。1ヶ月ほどして、隣の通りにゴードン・グレン(Gordon Glen)という名の公園があることがわかった。わが家の裏庭の3倍程度で、滑り台、ブランコ、シーソーがあるだけの小ぢんまりとした場所だが、木陰が快適で、裏に小川が流れていて快適である。その後、数回子どもを連れて行くようになった。
さて、今日は妻が友人たちと一緒に市内のスペイン料理店でお別れ会、上の娘が友達の誕生会のため、私は下の娘と2人で留守番。久しぶりにゴードン・グレンに歩いて出かけた。天気がよいが、暑くはなく、初秋の気持ちよい1日だ。
この1年で下の娘も随分と成長した。まだまだ「魔の2歳児(terrible two)」で、言うことを聞かないことも多く大変だが、少しづつしっかりしてきている。ゴードン・グレンへの行き帰りには少し坂があるが「だっこ」なしで、すべて自分の足で歩いた。シドニー留学が1年遅く、下の娘が今の発達段階のときにシドニー生活をスタートさせていたらならば、私も妻も随分と楽だっただろう。
ところで、グレンというのはスコットランド方言で深い峡谷という意味らしい。確かに小川が流れているが、峡谷という感じではない。昔はこのあたりが峡谷だったのかもしれない。ゴードン・グレンのある通りも、1つ隔てたマッキンタイア通り(わが家のある通り、5月29日の日誌参照)も坂がきつい。上の写真はマッキンタイア通りの途中、丘の上から撮影したものだが、遠くに小さく白い車が見えるところが、パシフィック・ハイウェイ(9月28日の日誌参照)。そこまでの道は一度下ってから急な坂道になっている。わが家はその坂道を上りかけた辺りにある。上の娘とこの1年間、平日は毎朝歩いてこの坂を登った。それも残すところあと2回となった。
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10月29日の日誌で、それまで通勤に利用していたシドニー大学の歩道橋がなくなったと述べた。 11月2日の日誌に、完成は3月のようだと書いたが、その告知通り今週から新しい歩道橋が使えるようになっている。新しい歩道橋の隣には、古い歩道橋の残骸が見えるし、新しい歩道橋もまだ工事が終わっていない。日本の大学なら、こうした工事は新学期までに完成させるのだが、オーストラリアでは告知通り新しい橋が使えるようになっただけマシか。
シドニー大学に行くのも今日と来週の月曜の2回となった。今日は、英文論文1篇をメールで投稿した。これで今回の留学期間に書く論文はおしまい。結局、この1年弱で英文論文8篇(うち2篇は採択されて印刷中)、英文書籍の1章を1篇(この春に出版予定だったのが少し延びているようでまだ校正ゲラが届いていない)、邦文書籍の依頼項目2篇(5月に出版予定)を新規に書いた。審査後に大幅に書き直した論文もあるので、執筆量はかなりのものになった(これまでに研究人生で最も多産な1年だった)。こちらに来るときは、英文論文3~4篇程度を想定していたので、自己採点は満点以上である。しかし、一般向けの解説書を2~3冊書くつもりだったのが、1冊も書けていない。こちらは零点で落第だ。
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